安国寺恵瓊ゆかりの不動院。
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記事書き始めて、安国寺恵瓊(えけい)の「恵瓊」が一発変換できたことに驚いた。
この前、広島に行った時のこと。
少し時間があったので、不動院というところに行く。
ナビをたよりに住宅街をくぐりぬけて、最後は参道を通過して境内横の駐車場に到着。
すると。
なんということでしょう!
工事をしているではありませんか。ショックです。
国宝不動院金堂保存修理工事、だそうです。
1594年ころの建立とのこと。古い。戦国末期。
記事書き始めて、安国寺恵瓊(えけい)の「恵瓊」が一発変換できたことに驚いた。
この前、広島に行った時のこと。
少し時間があったので、不動院というところに行く。
ナビをたよりに住宅街をくぐりぬけて、最後は参道を通過して境内横の駐車場に到着。
すると。
なんということでしょう!
工事をしているではありませんか。ショックです。
国宝不動院金堂保存修理工事、だそうです。
1594年ころの建立とのこと。古い。戦国末期。
(前記事からの続きで島根県浜田市)
護国神社の奥へ入っていくと、立派な城跡がありました。
まずは、司馬遼太郎の文章による浜田藩追懐の碑があります。
以下、文章を書き写し。
石見國は山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
石見人(ひと)はよく自然に耐へ、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。
石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。
東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人(あきうど)と貨材がゆきかう山陽道があり、西方には長門・周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。
石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕やし、ある者は砂鉄や銀を採り、ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世も倦むことがなかった。
浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。幕府は、この城をもって、毛利氏という外様藩に対するいわば最前線の牙城とした。
以後、藩主は十八代を経、城は二百四十八年つづいた。幕末、西方の長州藩が革命化して、幕府の規制から離れた。
長州軍は時のいきおいを得、また火力と軍制を一新させ、各地で幕軍を破った。
ついには浜田城下に押しよせた。浜田藩は和戦についての衆議がまとまらず、さらには二十五歳の藩主松平武聰は病臥でもあって、曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。明治維新に先立つ二年前の慶応二年(一八六六)のことである。
いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。 司馬遼太郎
無駄がないなかに情熱がある。さすがに名文。
島根の浜田から江津にかけて記録的豪雨とのこと。
先月、その浜田市に行った時、浜田城跡があったので行ってみました。
途中、山道をずんずん車で上っていくと開けた場所に着きました。が、城跡っぽくない。護国神社がありました。
広い境内です。
いろいろあります。
柿本人麻呂終焉の地との伝承もあるようです。興味が湧きません。