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松江城の正面には、堀尾吉晴の像がありました。



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堀尾吉晴(1542-1611)



天文12(1543)年、堀尾泰晴の長男として尾張国御供所(ごごしょ)村(愛知県大口町)に生まれた吉晴は、幼名を仁王丸、長じて小太郎と称し、次いで茂助と改めた。父の仕えた岩倉織田氏が織田信長により滅ぼされると、早くから豊臣秀吉に仕え、長篠の戦い、備中高松城攻めに活躍し、山崎の戦いでは天王山を占拠して明智光秀を敗走させた。   
賤ヶ岳、小牧・長久手の各戦に武功を樹て、秀吉の下で近江国佐和山四万石、遠江国浜松十二万石へと出世した。朝廷春宮坊(とうぐうぼう)護衛の長官を意味する帯刀先生(たてわき・たちはきせんじょう)にも任ぜられ堀尾帯刀と称した。容貌端正、性格温厚で仏の茂助と呼ばれた反面、戦場では勇敢に戦い鬼の茂助とも呼ばれた。秀吉の信任厚く、政務仲裁役である三中老の一人に任ぜられた。    
秀吉没後は徳川家康に与みしたが、三河国池鯉鮒(ちりゅう)の刃傷事件で重傷を負う。家督を継いだ子の忠氏が関ヶ原の戦いに出陣し、その功で出雲・隠岐二国二十四万石を与えられた。父子は尼子氏の旧城富田(とだ)城(安来市広瀬町)に入るが、広い城下が見込め、交通の要衝である松江に拠点を移すことを決める。城地をめぐり父子で意見が分かれたが、忠氏の急死後、吉晴は子の志を継ぎ、亀田山に城を築きその麓に城下町を造ることを決意する。吉晴は秀吉も認める普請上手で、北の丸で指揮を執ったと伝わっている。慶長12(1607)年に着手し、五年目、城下の完成を目前に69歳で没した。この像は、松江城の築城とその城下造成を指揮する、吉晴の雄姿である。



以上、銅像脇にある案内板の書き写し。



数々の手柄と信頼するに足る人柄により、信長、秀吉、家康に信任された人のようですが、正直、知らんかった。




手柄の数々は信長から「茂助は毎度のこと」と讃えられ、
秀吉の下では数回にわたる城受取役や敗れた城主切腹の検視役も務めたとか。



wikiを見ると、あの有名な備中高松城の水攻めによる勝利で、城主・清水宗治の検視役もこの人だったそうです。



だいぶ前のNHK大河「功名が辻」で、上川達也演じる山内一豊との出世争い三人組がいたのですが、   
ロンブー敦(中村一氏)と、もう一人の生瀬勝久が堀尾吉晴の息子・忠氏。(同じくwikiから)



像は新しいもののようですが、このような現場を指揮する姿のものはめずらしい?;
当時の武将、特に藩主は国造りのために、土木にも秀でている必要があったと思います。
城普請を指揮する姿。なかなか良い。



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